Masuk「出産の前後は、出社を減らす」 婚約披露パーティーを終えた控室で、朔弥さんは会社の資料を閉じた。 「最初の数週間は、家にいる時間を優先する。決裁の代行も、緊急時の連絡先も決めてある」 「いつから、そんな準備を?」 「君が、休む間の仕事を引き継いでいた時だ」 私の予定を変えることばかり考えていた人が、自分の仕事を人へ渡そうとしている。 「社長がお休みして、大丈夫なんですか」 「大丈夫にするのが、引き継ぎだろう」 「私には黙っていたのに」 「反対するかと思った」 「しますよ。無理な計画なら」 朔弥さんは、一枚目から資料を見せた。 誰が何を決め、どの時だけ連絡を受けるのか。私が読んでも、彼が本気でこの子を一緒に育てようとしているのがわかった。 胸がじんわりと熱くなる。 「一緒に覚えましょう」 「何を?」 「この子のお世話です。私も初めてですから」 彼は私のお腹へ手を添えた。 「ああ。一緒にやる」 「不安じゃないんですか」 「不安だ」 迷わず返され、私は彼を見た。 「……姉さんの時のことを、今でも思い出す。君とこの子に何かあったらと思うと、怖い」 お腹に触れる手へ、もう片方の手も重なった。 「でも、今度は黙って一人で決めない。怖い時は怖いと言う。わからないことは、君と一緒に覚える」 涙が一粒、頬を伝った。 「どうして泣く」 「嬉しいからです」 朔弥さんの指が、涙を拭った。 その時、お腹の中から小さく蹴られる。 「今、動いた」 「聞いていたみたいですね」 彼はお腹へ顔を近づけた。 「待っている。ゆっくりでいいから、元気に生まれてきてくれ」 *** パーティーの三日後、新居の応接室へ、榊原さんが一人で訪ねてきた。 左腕はまだ布で支えられている。 「今日は、映像ではなく、自分でお話ししたくて来ました」 私と朔弥さんの向かいへ座り、警察へ渡した撮影物や依頼の記録について説明した。 自分の手元には、こちらへ連絡する材料として使えるものを残していないという。 「私たちの通院も、寝室も、お仕事の材料だったんですね」 「はい」 榊原さんは逃げなかった。 「それは、許せません。お金が必要だったと言われても、私が眠れなかった夜は戻りません」 「わかっています」 右手
「続けてもいいか」 婚約披露パーティーの壇上で、朔弥さんが私へ尋ねた。 一条父娘と冴子が去った会場には、倒れた椅子や、澄麗が落とした髪飾りが残っている。 係員たちが片づけようとしていた。 私は夫の手を取った。 「続けたいです」 ここで控室へ戻れば、会場に最後に残るのは澄麗の絶叫になる。 それは嫌だった。 私は朔弥さんの隣に立ち、この場を、私たちを祝ってもらう席へ戻したかった。 朔弥さんが司会者へ頷く。 照明が戻り、止まっていた音楽が流れ始めた。 澄麗が座るはずだった椅子は下げられた。 壇上の中央には、私と朔弥さんだけが残る。 「改めて、ご報告します」 朔弥さんが私の手を持ち上げた。 「私は高瀬真尋さんへ求婚し、受けてもらいました。近く、結婚式を挙げます」 最初に立ち上がったのは、先ほど私へ頭を下げた役員だった。 「高瀬さん。祝いの席で申し上げることではないかもしれませんが、改めて謝罪させてください」 役員席から、私をまっすぐ見ている。 「再建案の数字を作り直し、離れかけた取引先をつなぎ、現場に残った社員をまとめた。御門がここまで戻れたのは、あなたの働きがあったからです」 別の役員も立ち上がった。 「それなのに、会社の都合であなたを担当から外しました。申し訳ありません」 「社長にも、この会社にも、あなたが必要です。復帰を待っています」 これまで何度も、家や会社の都合を理由に、仕事を辞めろと言われてきた。 妻だから。妊娠したから。一条家にとって邪魔だから。 私が続けたいかどうかを、聞かれたことはなかった。 その会社の人たちが今、私のしてきた仕事を見て、戻ってきてほしいと言ってくれている。 ようやくだ。 仕事も、夫の隣に立つ場所も、自分の人生を自分で決める権利も。 奪われ、手放すよう迫られたものが、ようやく全部、私の手に戻ってきた。 肩から力が抜けた。 嬉しいのに、目の前に並ぶ役員たちの顔が涙で滲んだ。 返事をしようとすると、声が少し震えた。 「ありがとうございます。出産後、必ず戻ります」 役員たちが頭を下げた。 社員の席から「おめでとうございます」と声が上がり、一人、また一人と立ち上がる。 拍手が会場を満たした。 父が笑っている。 眼
「御門への圧力を始めたのは、お父様です」 澄麗は、父親を見たまま話し始めた。 「朔弥さんが真尋さんを選ぶなら、一条との取引を止める。会社が困れば、最後には言うことを聞くとおっしゃったわ」 「黙りなさい」 「どうして? 私だけのせいなのでしょう?」 雅臣が壇上へ上がろうとする。 係員に止められると、今度は会場の責任者へ怒鳴った。 「この会を終わらせろ!」 誰も照明を落とさなかった。 マイクも切れない。 澄麗は笑っていた。 頬を涙が伝っているのに、拭おうともしない。 「役員の方へ話を通したのも、お父様。真尋さんのお父様の事務所へ圧力をかけたのも、お父様の指示よ。何かあっても、一条が処理すると言ったじゃない」 「私は、人を殺せとは言っていない!」 会場が静まった。 雅臣は、自分が何を否定したのか気づいたらしい。 開きかけた口を閉じた。 「殺すつもりだったと、知っていたんですね」 私が尋ねても、答えなかった。 澄麗の視線が、冴子へ移る。 「冴子さんも同じでしょう。離婚届を出せば終わる。子どもだけ御門へ迎えればいい。母親なんて、あとからどうにでもなるとおっしゃったわ」 「そんな言い方はしていません」 「嘘!」 澄麗の甲高い声が、会場を裂いた。 澄麗が初めて、敬語を捨てた。 「私こそ御門の嫁にふさわしいって言ったじゃない! 真尋さんは年を取りすぎている、仕事ばかりで妻の役目も果たせないって!」 「あなたが勝手に――」 「離婚届を盗んだのはあなたでしょう!」 二人の声が重なった。 さっきまで同じ席で笑っていた人たちが、互いを指さしている。 澄麗は乱れた髪を直さないまま、私を見た。 「あなたが全部悪いのよ!」 マイクを握った手が、白くなる。 尖った声と一緒に、指まで私へ突きつけられた。 「子どもの父親だって、本当に朔弥さんかわからないじゃない。城戸さんと何度も会って、あんな写真まで撮られて!」 城戸さんが席を立った。 「高瀬さんと、そうした関係になったことはありません」 澄麗は城戸さんを睨んだ。 「あなたも、その人が好きだったのでしょう!」 「だからこそ、本人が選んだ相手を傷つけることはしません」 城戸さんは、それ以上話さずに座った。 私はマイクを持った
「私だけの責任だとおっしゃるの?」 冴子は、椅子の背に置いていた手を離した。 婚約披露パーティーの壇上で、雅臣と向き合う。 「一条が資金を戻す。澄麗さんが真尋さんを納得させる。だから役員たちも動いたのでしょう」 「娘一人に任せた覚えはない。離婚届は、あなたが処理すると言ったはずだ」 会場のカメラが、一斉に冴子へ向いた。 冴子の肩がわずかに跳ねた。 並んだレンズを見回し、出口へ目を向ける。けれど通路には係員が立ち、報道関係者は一台もカメラを下ろさなかった。 冴子はいつもの微笑を作ろうとした。 上がったのは口角の片方だけだった。 「処理だなんて、人聞きの悪い」 「保管していた書類を提出したのは、母さんだ」 朔弥さんが割って入った。 「俺たちの意思を確かめずに持ち出した。離婚届を撮影させ、一条側へ渡したことも、扱った者が認めている」 「あなたたちが、いつまでもはっきりしないからでしょう!」 冴子の声が変わった。 「家を守るには、誰かが決めなくてはいけなかったのよ」 「だから俺の妻を外したのか」 答える代わりに、冴子は澄麗を見た。 「あなたが、真尋さんを自分から退かせると言ったのよ」 「私だけに押しつけないでください」 澄麗が、すぐに言い返した。 役員席へ腕を伸ばす。 「皆様だって、昨日までは私を朔弥さんの婚約者として迎えるとおっしゃっていたでしょう! 御門と一条の縁談しか会社を救う道はないと、そうおっしゃったわ!」 役員席から、一人が立ち上がった。 「その判断が誤りでした」 逃げずに澄麗を見てから、私へ向き直る。 「一条家との縁談を経営再建の条件として扱い、高瀬さんを担当から外す人事にも賛成しました。会社のためだと言いながら、一人の社員へ責任を押しつけた。申し訳ありません」 深く頭を下げた。 ほかの役員たちも立ち上がり、続いて頭を下げる。 澄麗は、並んだ役員の顔を端から見た。 一人ずつ名前を呼びそうに唇を動かす。けれど、誰も婚約者の席へ戻れとは言わなかった。 手の中でマイクが震え、甲高い音が会場へ走った。 「今さら、謝って終わりにするの?」 澄麗の声が高くなった。 「私だけを壇上へ上げて、都合が悪くなったら間違いだったと言うの? 冴子さんが、御門側はすべて押さえ
「一条を敵に回して、御門が無事で済むと思っているのか」 「その脅しなら、もう終わっています」 朔弥さんは、雅臣から私を隠すような立ち方をしなかった。 私の手を握り、二人で同じ場所に立ったまま答えた。 「何?」 「本日の午前中、取締役会を開きました。私の代表取締役解職を求める議案は、否決されています」 雅臣の顔から、怒りが一度消えた。 「そんなはずはない」 会場にいる御門の役員たちを振り返る。 一条側と話をしていた人たちも、今日は同じ席にいた。 「君たちも、出席したんだろう」 名指しされた役員が、膝の上の資料を持ち直した。 「はい」 「なら、なぜ私に知らせなかった」 「正式な取締役会の内容です。一条様へ先に報告するものではありません」 雅臣が言葉を失った。 以前なら、その問いを向けられた役員は、すぐに謝っていたのかもしれない。 けれど今日は、頭を下げなかった。 朔弥さんが壇上の画面を切り替えた。 「解職案の否決だけではありません。既存の再建計画を継続し、外部提携先との契約、金融機関との融資契約も、本日までに締結しています」 署名と日付の入った書面が映る。 真尋と現場が作った数字を見てくれる相手と話す。 パーティーの準備をしていた頃、朔弥さんがそう言っていた。 その答えが、いま目の前にある。 「一条が資金を引けば、御門は立ち行かないはずだ」 「一条の条件を受ける必要は、もうありません」 会場の後方で、金融機関の担当者が頷いた。 提携先の代表者も立ち、契約が成立していることを認める。 「妻と別れ、一条が認める経営者へ替わらなければ会社を支えない。そんな条件で社員を守ったことにはなりません」 朔弥さんは、役員席へ向き直った。 「御門の役員が、会社の決定をまず一条へ報告する。その習慣も、今日で終わりです」 先ほど雅臣に問い詰められた役員が、資料を置いて立ち上がった。 「今までは、それが当然だと思っていました。御門の決定を一条家へ先に伝え、了承を得てから動く。ですが、その慣習自体がおかしかったのです」 雅臣が振り向く。 役員はもう、目を逸らさなかった。 「もう終わりです。御門の経営判断は、御門の取締役会が責任を持って決めます」 別の役員も頷いた。 「一条家の意向
「では、誰と結婚するというの!」 先ほどより高くなった澄麗の声が、控室まで届いた。 画面の中で、朔弥さんは答えず、宴会場の後方を見た。 同時に、控室の扉が開く。 「お時間です」 迎えに来た係員が頭を下げた。 父が立ち上がり、私へ腕を差し出す。 「行こうか」 「うん」 私は父の腕へ手を添えた。 「怖いか」 「少しだけ。でも、もう隠れたくない」 「なら、顔を上げなさい」 廊下を抜けると、宴会場の大きな扉が左右へ開いた。 何百もの視線とカメラが、一斉にこちらを向く。 お腹を締めつけない淡い色のドレスを選んだ。 左手には、二本の指輪がある。 一歩目だけ、足が重かった。 父は私を引かなかった。急かさず、私が自分で踏み出すのを待っている。 私は顔を上げ、会場へ入った。 壇上で、澄麗がこちらを見ていた。 白に近いドレスを着たまま、さっきまでの笑みを失っている。 朔弥さんが壇上を降りた。 長い通路を、まっすぐこちらへ歩いてくる。 澄麗も、役員席も、向けられたカメラも見なかった。 最後に迎えに行くと言った人の目は、最初から私だけを見ていた。 父の前で止まると、軽く頭を下げた。 「真尋さんを、お借りします」 「返すつもりはあるのか」 「ありません」 父が笑った。 「なら、大事にしてくれ」 父は私の左手に並ぶ二本の指輪を見た。 それから、自分の腕から離した手を朔弥さんへ渡す。 朔弥さんの指が、私の指へ深く絡んだ。 「待たせた」 「ずいぶん、溜めましたね」 「最後まで信じると言っただろう」 「信じていました」 少し腹が立っただけです、と続けると、彼の口元が緩んだ。 二人で壇上へ戻る。 「どうして、その人が出てくるの!」 澄麗が私たちの前へ立とうとした。係員に止められる。 声が高く跳ねた。入場した時の、よく通る落ち着いた響きはもうない。 「その人はもう妻ではないわ。離婚届は受理されたでしょう!」 朔弥さんは私の手を持ち上げた。 二本の指輪へ、会場の照明が当たる。 「届出は受理されました。ですが、提出された時、俺たち二人に離婚する意思はありませんでした。現在、記録を正す手続を進めています」 「でも、離婚を告げたのはあなたでしょう」 「あ
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな







